戦時下は「子どもの命より大事なもの」保管した奉安庫、目黒区の小学校で発見 今は「大谷翔平グラブ」も入れて

2024-07-06     HaiPress

戦時下、天皇皇后の肖像写真「御真影(ごしんえい)」や教育勅語の謄本を保管した「金庫式奉安庫(ほうあんこ)」が、東京都目黒区立原町小学校の職員室で見つかった。奉安庫は戦後に処分された例が多いが、同校では本来の用途は忘れられ、書類などを保管する収納庫として使われ続けていた。戦後79年を迎える8月にも、区めぐろ歴史資料館で一般公開される。

金庫式奉安庫戦前の学校では御真影などの保管のため防火性の高い「奉安殿」が建てられ、鉄筋コンクリート造の校舎が普及した都市部では、校内に置く金庫式奉安庫が多く設置された。金庫式は大正期の広告で「1130度の高熱に約6時間耐えられる」と紹介された。敗戦後の1945(昭和20)年12月、連合国軍総司令部(GHQ)が国家神道の禁止や政教分離の徹底を示した「神道指令」を発した後、奉安庫や奉安殿は多くが撤去された。

◆職員室で金庫として使用、側面には給食献立表を張り…

「ずっと使い続けてきたが、誰も気付かなかった。まさか貴重な物だったとは…」。同校の加藤明恵校長は、金庫式奉安庫の「発見」に驚きを隠さない。

目黒区立原町小にある古い金庫を見る加藤明恵校長(右)とめぐろ歴史資料館の篠原佑典さん。物入れとして使用していたが「金庫式奉安庫」と判明した=東京都目黒区で(川上智世撮影)

資料館によると奉安庫は金属製で縦62センチ、横97センチ、高さ121センチ。重さは数百キロとみられる。三重扉の一番外側は厚さ15センチで、多くの奉安庫と同様に鳳凰(ほうおう)の絵柄、二重目には皇室を示す桐(きり)の紋章が入っている。

職員室の金庫に保管されていた1940(昭和15)年の「校規」には、当直任務について「御真影並勅語(ちょくご)謄本ノ奉護」「奉安庫鍵ノ保管」と書かれており、奉安庫は1934年の開校間もなく使われ始めた可能性が高いという。

㊨原町小学校で発見された東京市原町尋常小学校の校規㊧東京市原町尋常小学校の校規に書かれている「2.奉安庫鍵ノ保管」の文=東京都目黒区で

3月に別の調査で訪れた資料館の篠原佑典研究員が「職員室の金庫に、桐の紋章がある」と副校長から聞いたのが、「発見」のきっかけだ。篠原研究員が確認すると、職員室の片隅にあった奉安庫の側面には、給食の献立表などがマグネットで張られていた。今年春に大リーグの大谷翔平選手から贈られたグラブも、使用時以外は保管されているという。専門家に問い合わせるなどし、紋章や見つかったときの状況などから本物と確定した。

篠原研究員によると、奉安庫は戦後、皇室関係の要素を取り除けば金庫としても使えた。ただ重くて使いづらく、多くは校舎の建て替え時などで廃棄されたとみられる。23区内の小学校ではほかに、台東と文京両区で計4基が確認されている。

戦時中の子どもたちは、奉安庫の前で角度の深いおじぎ「最敬礼」をしなくてはならなかった。篠原研究員は今回の発見について、「現在とは大きく異なる教育のあり方を示す資料の一つとして、大変貴重なもの。後世に伝えていきたい」と話した。(中村真暁)

◆「戦前教育の異常性伝えるもの」日大・小野雅章教授

日本大の小野雅章教授(日本教育史)によると、空襲による火災時などは御真影や教育勅語の謄本を「奉遷箱(ほうせんばこ)」に移し、子どもの命に優先して安全な場所に移すことが、学校側にとって最重要任務とされた。

小野教授は「金庫式奉安庫は戦前の教育の異常性を伝えるもの」と指摘。子どもたちの発達と成長の保障以外のものを学校側が重んじる発想は、現在の教育現場における国旗掲揚や国歌斉唱の強制にも見られるとし、「決して過去の問題ではない。過ちを繰り返してはならないと考えさせられる」と話した。

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